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以下は、「完全版 赤毛のアン」を訳された山本史郎氏からいただいた11月20日付け電子メールのお便りです。山本氏の許可のもとにこのページに掲載しています。1番目の質問はわたしも尋ねたもの。9つのポイントは、ご翻訳に際してのご苦労や工夫がわかって、読むととってもためになります。9番目のマリラの口調では、村岡花子氏の訳にも言及され、日本におけるアンの歴史や人気を考えるうえでも、たいへん興味深い内容となっています。(尚、コピーライトは山本氏に属します。無断で一部または全文の借用および転載を固く禁じます。このページに関するお問い合わせは、yuka@yukazine.com までお寄せください。) -- 『赤毛のアン』翻訳メモ-- 拙訳『完全版 赤毛のアン』が書店にならんでまだ一週間ほどにしかならないのに、すでにさまざまの人々からご意見や感想、それに質問などがわたしのもとに寄せられました。ご指摘された部分のほとんどは、わたしが翻訳する過程で迷い、熟慮したうえで、今のようなかたちになったところです。そのような点をいくつか、ここに記したいと思います。 1)「グリーンゲイブルズ」か、「グリーンゲイブル」か? 単に原語の音をとれば「グリーンゲイブルズ」となります。これは「ゲイブル」すなわち三角の切妻屋根になった部分が、アンの家には幾つかあるので、複数形が用いられているわけです。しかし「グリーン」という語が「緑」という意味であることはほとんどの日本人にわかります。つまり準日本語的な語と感じられるわけです。 したがって「ゲイブル」の方も半ば日本語的なステータスを与えなければならないと、わたしには感じられました。しかしその場合に、日本語には複数形がないので、やはり単数形で出すのが正しいのではないかと感じられたわけです。 たとえば、青い窓がいっぱいある家をさして「青窓々の家」どということはなく、「青窓の家」が自然でしょうし、緑の破風<ハフ>があるからといって、「緑ハフハフの家」というのも変です。このように考えてくると、「グリーンゲイブルズ」と複数にするのはかえって気障に感じられ、どうしても避けたくなりました。 また、「グリーンゲイブルズ」という風に、語の最後が「ズ」で終るのは重い感じがするし、「グリーンゲイブル」なら「グリンゲイブル」という風に読めば七音になって、耳に心地よいということもあります。「みどり破風、グリンゲイブル、アンの家」などというと語調はまるで俳句です。このように様々の理由により、「グリーンゲイブル」でなければならないと感じられたわけです。「トップヘ」 2)自然描写 そこで自然描写を訳すときには、とくに注意して、読者が想像しやすいように書こうと思いました。すなわち、モンゴメリの文章から想像できる「絵」を頭に描いて、それを自分の言葉で、できるだけ単純で、印象的に描きなおすという作業を、かなり意識的に行いました。したがって、構文、文章の順序、比喩的表現などの点で、もとの文章とかなり違っている部分もあるかもしれません。 しかし、今回の翻訳の日本語を読んで頭に浮かぶ風景は、英語を読んで頭に浮かぶものとほぼ近いものだと信じています。「トップヘ」 3) 名前 たとえば「Idlewild」とか、 「Violet Vale」など、あまりにも露骨にごろがよかったり、わざとらしく頭韻を踏んでいるなどという感じがしないでもありません。 アンはこんな名前に大得意だし、ダイアナもそれにうっとりしていますが、作者自身はすこし距離をおいて、ややアイロニカルに見ているように感じられます。この辺の感じを訳語に表現することはきわめて困難ですが、「VioletVale」については、アンが平凡ではないと自慢しているのですから、「すみれの谷」のようなものではまずいと思います。あまりにも、そのものすぎます。「ヴィオラ谷」としたのはこのためです。逆に、ダイアナが名付けた「白樺の道」は平凡そのものでなければなりません。それがアンの感想なのですから。「トップヘ」 4)章のタイトル 翻訳では、シーザーの有名な言葉を意識しながら、内容を要約しているような3つの単語を並べてみました。難攻不落に見えたミス・バリーの心をアンが征服するのですから、まさにぴったりです。これにたいして、第27章の訳のタイトル「とんだ心の染めちがい」はかなりもとの表現とは離れています。 これは「とんだ心得ちがい」という表現と、髪を「染めちがえる」という言い方を合成したものですが、この章を読んだらなんとなく頭に浮かんできて、アン流にいうなら、「抗しがたい誘惑」にとらわれて、採用してしまいました。「トップヘ」 5)ことわざなど これにたいして、第2章で恥ずかしがりやのマシューが知らない少女に声をかけるのは、「ライオンの巣をつっつくようなものだ」と慣用的な言い方がなされています。ここでは、「虎穴にいらずんば虎児をえずということわざがあるが...」としました。もとの表現には「勇気を要することを行う」というような意味しかありませんが、「虎穴」云々をもちだしたことで、危険をおかして、すばらしいものを手に入れるという(原文にはない)ニュアンスがつけ加わったのは、かえってよかったのではないかと感じています。 この例に限りませんが、原作の隅々の表現にいたるまで、落すことなく、訳文にすべて取り込もうというのが、大方針です。「トップヘ」 6)表現の追加 これは第十七章の会話です。ダイアナの母親が娘にアンとの交際を禁じたので、アンはダイアナと大げさな「訣別」の場面を演じてみせるところです。ここの場面のポイントのひとつは、アンの大げさな言い回しと、ダイアナのきわめて現実的なセリフの落差からくる滑稽感です。そこで、女の子がわざと声を低音にして、ひきずるように「あるぅ」と発音する口調を想像しながら、ダイアナのセリフを書き、さらに、原文にはない「いやに現実的なことを」というフレーズを加えました。これは、ここのジョーク、滑稽感をよりよくお分かりいただけたらという配慮です。このように、場面のポイントをはっきりさせるような言葉を加えた例はほかにもかなりあります。「トップヘ」 7)「オー!」 実をいって、最初翻訳をはじめたときには、「まあ」などと訳そうとしたのです。ところが、やがて「Oh!」を連発するのがアンのセリフの特徴になっているのに、それを翻訳しようと思うと、文脈によって「まあ」、「あら」、「あれ」、「ああ」などとさまざまな形に変えないと不自然になることに気づきました。ところが、まさに同じかたちの「Oh!」をくりかえすというのがアンのセリフの特徴なので、さまざまの形に変えてしまうのがいかにも残念に感じられました。 それにくわえて、アンのセリフは、普通の日常会話というより、書物でのみ用いられるような語、言い回し、センテンスが多いというのが特徴になっています。したがって、「オー! 」という、少々、いわゆる「バター臭さ」が感じられる言い方はぴったりだと思いました。 ただし、その他の人物にもときには「オー!」と言わせてはいます。これは主として、アンの「オー!」が出てきた直後など、その口調がうつってもおかしくないところです。(ただし、わたくし、すなわち訳者にまでうつってしまって、やたらに使ってしまったところもなきにしもあらずです)。「トップヘ」 8)アンの口調 したがって、その前後でアンのセリフに際だった文体的差異をつけなければならないのは当然のことですが、そればかりでなく、場面場面に応じた喋り方をさせなければならないことも、忘れてはなりません。 一例を挙げれば、第2章でアンはマシューの馬車にのってグリーンゲイブルにむかいます。アンは元来饒舌な少女ではありますが、ここで息もつかずに、連想のおもむくままに喋ってゆくところには、初対面の人に会ったことからくるはにかみのようなものが感じられます。 そこで、そのような状況にふさわしく、「わたしって、橋を渡るのがこわい人なの」、「わたしって、決められない人なのよね」のような口調を用いたり、「です」を時々まぜたりなどの工夫をしながら、全体として、少し幼い調子が出るようにと思いながら訳しました。 これはたとえば、学校に行き出してからのアンのセリフと比べていただければ明らかになると思います。すなわちその場合には、いかにも中学生ぐらいの子どもが喋りそうな言葉を想像しながら訳していったわけです。 そのほか、ダイアナとの口調の違い、それから喋る相手によっての違いなどある程度表現できていると思いますが、こうしたことは必ずしも意識的に行ったのではなく、場面場面を想像し、人物になったつもりでどのように喋るだろうかと考えながら訳した結果として、自然に出てきたものです。「トップヘ」 9)マリラの口調 その理由はいくつもあります。まず、年配の婦人で、典型的なお婆さん言葉を用いて喋っている人など、まわりを見回して誰一人いないのです。これは、わたしがたまたま幸運だというのではないと思います。 ですから、リアリズムに反します。さらに、お婆さん言葉を喋っているマリラのセリフを読み返して、わたしの頭に浮かんできたのは、ちょっと以前のテレビによく出ていた加藤茶とか志村けんなどが和服をきて、ひっつめのかつらをかぶって演じる、意地の悪いお婆さんなのです。 これを連想してしまうと、もう腹をかかえて笑わずにはいられませんでした。このことは二つの問題をはらんでいます。 一つはこのような、滑稽な連想を呼び出してしまうということですが、実は、もう一つの問題にくらべれば、これは罪は軽いといえます。というのは、このような言葉を喋らせることで、マリラを「頑固婆さん」という一つの典型的な「型」にはめてしまうからです。はたして、マリラはこのように類型化してよい人物でしょうか? 『赤毛のアン』は孤児のアンという少女がもちろん主人公ですが、アンと触れ合ううちにマリラの心のこわばりが次第に融けてゆき、かの女の世界観、人生観がかわってゆくという物語でもあります。その意味で、ただ単にアンをめぐる「少女小説」だという言い方ではおさまりきらない、広がり、膨らみをもっていて、真に大人の鑑賞にたえるものになっているのだと思います。そのような意味で、マリラに現実的な言葉を喋らせて、口調も厳密にコントロールしながら、最初と最後ではかなり変えてゆかなくてはならないという強い主張が、このマリラの若々しい口調にはこめられているのです。 ここに村岡花子訳の『赤毛のアン』があります。37章でマシューが亡くなった、その夜のことを描いた部分です。何を底本としたのかは不明ですが、村岡版は総体的に簡略化がめだちます。 とくに、夜中に泣き出したアンの声をききつけて、マリラが部屋に入ってきて、「二人はともに泣き、心から語りあい、慰めあった」と記されたあとは、段落がかわり、「二日たってから」とつながってしまい、原文のかなりの部分が省略されています。 その省略された部分では、「もしあなたがここにいなかったら、わたし今ごろどうなってしまったことかしら... アン、たぶんわたし、あなたに対してある種厳しくて、つっけんどんな態度をとっていたことは、自分でもよく分かっていたのよ。でも、だからといって、マシューとおなじぐらいあなたのことを愛してはいなかったのだとは、思わないでね...
あなたが緑破風館<グリーンゲイブル>に来ていらいずうっと、わたしにとって、あなたは喜びで、なぐさめだったのよ」と、マリラが自分の心をはじめて率直に打ち明けるというのがポイントです。大いなる悲しみがきっかけとはいえ、このように率直に感情を出せるまでになったマリラの姿。 この場面が描かれないかぎり、マリラの物語は完結しません。この場面が省略されたのは、類型化されて「頑固お婆さん」になってしまった村岡版のマリラの姿と、このようなセリフを言うマリラの間に大きな矛盾が感じられたからではないでしょうか。 この場合、このような矛盾を感じてそのようにされたとするなら、それはそれで村岡花子さんの見識と鋭い感性を示すものだと思います。つまり、ある型の人物として解釈されたマリラ像がそこに明確な輪郭をもって描き出されているからです。 しかし、わたしが翻訳の作業をおこなっている時にはこのような村岡版のことはまったく知りませんでしたが、原作とはまったく違っている、いかにも典型的な「頑固婆さん」を描きながら、マリラの微妙な心理の変化が描かれている部分を、平気でべったりと訳してしまったのでは、翻訳者
-- どころか、一読者としての感性が疑われ、モンゴメリに申し訳ないと感じられた次第です。 いずれにせよ、村岡=アンもすばらしいと思いますが、そろそろこのような個性的な解釈のまじったマリラやアンの姿とは別に、原作の『赤毛のアン』に迫る時期が来ているのではないでしょうか。「トップヘ」 山本史郎 1954年、和歌山県にうまれる。1978年に東京大学教養学部教養学科を卒業。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻はイギリス19世紀文学。翻訳に、「ネルソン提督伝」、「図説アーサー王物語」、「図説アーサー王伝説事典」、「図説アーサー王の世界」、「ホビット」、「図説ケルト神話物語」、「女王エリザベス」上.下、「トールキン、こ犬のローヴァーの冒険」、「ケルト妖精物語」I&II、「絵物語ホビット」(以上原書房)「アンティゴネーの変貌」(共訳、みすず書房)がある。
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